20代のハイライト

20代最後のブログを書こうと思う。

ハタチの自分へ、20代のハイライトとメッセージを。

 

 

ハタチの自分は大学生だった。

成人式に向けて体を鍛えまくっていたころか。

 

動機は浅はか。

『体育大学に行ってるんだからバキバキに鍛えてカッコいいと言われたい!』
そのモチベーションだけでトレーニングをしていた。

今ではもう無理だ。笑

 

そんな理由でトレーニングはできない。

別に見た目じゃなくて生き様でカッコいいと言われたいし。とか思ってしまう。

磨くなら見た目じゃなくて中身だろ!!ハタチの自分に伝えたい。

 

 

まぁそんな感じでスタートした20代。

小学校から大学までの長かった『学生』という身分から『社会人』という身分になり仕事をやってきた。

 

会社員をやって個人事業主もやって会社も設立した。

どのポジションで仕事をしても本当に楽しめていた。

 

会社員時代

進学予定だったけれどスカウトされ会社員に。

しかし・・・入社前にありえない程の難易度の試験を提示された。しかも2回。

そこは神童と呼ばれていたとかいなかったとか・・・まぁその力を使ってクリア。

 

無事に正社員となったかと思えばビジネスで結果を出さないとクビと言う社長。

何とか結果を出し、その後も東京移転とか刺激的な日々を送った。

全国を飛び回ってたまに海外にもつれて行ってもらった。

 

仕事のスタンスとしては無理難題を言われても何でもできますと言った。

任してもらった仕事は何とかしてきた。

 

仕事は何でも楽しかった。

尊敬する人たちと大好きなことを仕事にしているんだ。

楽しくないはずがなかった。ネットには書けないくらいの時間を働いていた。

でも苦じゃなかった。全てが楽しかったから。

 

 

独立したての頃

独立したらハードワークに拍車がかかった。

フリーランスと言えば聞こえはいいが、フリーターに毛の生えたくらいで毎月がギリギリの生活だった・・・というのは嘘で。笑

 

独立して結構早くに食えていた。

ただ本当に食えていただけで本当に自分のしたいことを見失って、目の前のお金を掴みにいっていただけ。オファーをもらった仕事をやるだけ。

少し自由にできるお金が増えて少しいいお酒を飲めるようになっただけ。

 

僕は一体何のために独立したんだろう・・・

 

なりゆきみたいな独立をしてしまい漂うような生活。

そんなんじゃダメだ。そのために独立したんじゃない。

 

転機はトレドラ※だった。

(※スポーツトレーナー&コメディカルドラフト会議)

 

覚悟が決まった時

 

トレドラという大学時代から思い描いていた構想を形にした。

構想6年の自分の中の大イベント。

正直に言うと怖かった。形にするのが怖かった。

失敗したら取り返しがつかないような気がしていた。

 

1回目、当日は久々に手が震えるくらい緊張した。

 

1回目からいい感触を持てたと言う嬉しい反面、大赤字を叩いた。

しかも2回も。

 

トレドラをやればやるほど売り上げが下がった。

当然と言えば当然だ。トレドラに時間を割くには他の仕事を辞めるか誰かにお願いするしかない。

 

人に仕事を渡して売上が落ちまくった。

 

ただトレドラをやると決めたことで自分の中で覚悟ができた。

失敗しても失敗しても成功するまでやり続ける。

本気で描いたビジョンを取りに行く。

 

 

世界に挑戦することを決めたのもそのくらい。

タイに行き、ラオスに行き、マレーシア、フィリピンと行くようになった。

ビジョンを取りに行くためにまだまだ挑戦は続くけど。

 

だからハタチの自分に言いたい。覚悟なき独立はダメ。

それは独立じゃない。逃げただけ。逃げただけなの。逃避。

 

今になって胸を張って言える。覚悟はあると。

覚悟ができたので法人化した。

一般財団法人スポーツアライアンス設立。

 

たくさんの人を巻き込みたいから株式会社じゃなく財団法人にした。

自分らしい形にできたかなぁと思う。

 

そしておかげさまで本当にたくさんの企業さんとお付き合いできている。

ありがたいなぁ。ビジョンに確実に近づいている。

30代はもっと楽しみだ!
 

そうそう。

20代は仕事だけでなくプライベートでも色々とあった。

 

暗黒期

1度、婚約破棄を経験した。(初のカミングアウト 笑)

24歳の頃。人生のド底辺があったと言うのであればこの時と言うだろう。

 

昼ドラもビックリな展開が待っていた。

大切な人を守れなかった自分の不甲斐なさ、無力さに毎週泣いた。

 

当時の彼女から衝撃の事実を告げられた時に僕は条件反射で床を殴った。

折れたのだろう。今も右の薬指の付け根は変形したまま。

この経験があるからこそ『お金のための仕事よりも好きを仕事に』と伝えている。

辛い経験だったけれど多くのことを学んだ。

何よりも強くなった。

 

サイヤ人は死の淵から蘇ると強くなるが、地球人にも当てはまると思う。

確実に強くなった。僕は強くなれた。

 

 

アホアホ期

その後、大学時代の友達とルームシェアをした。

一言で言うと、飲んだくれの日々だった。

世間には発表できないようなアホな秘密をお互い握ってしまった。(笑)

今での居酒屋での酒の肴になる。

 

あの2年間は本当に面白かった。

息子が生まれ、大きくなったらルームシェアを勧めようと思っている。

 

20代くらいじゃないとルームシェアとかできんでしょ。

子供の頃、憧れだったドラマ『人にやさしく』に近い経験ができた。

ありがとう。江川。

 

結婚

そして先日(10月9日 体育の日)、結婚をした。

200名近くの方が披露宴に来てくださって、荘厳な雰囲気の結婚式になる予定だった。・・・だった。

 

ただ無理だった。僕が泣きすぎたからだ。笑

花嫁姿を見た瞬間泣いた。

 

神前式の前にすでに泣いていた。おかんも同じタイミングで泣いていた。

 

 

披露宴の最後の親父の挨拶。

初めて名前の由来を教えてもらった。

 

実は僕が産まれる前に脇坂家の家屋は全焼した。

跡形もなくなってしまったそうだ。

 

お先真っ暗とはまさにこのことで家族の気持ちが沈んでいる時に僕が生まれた。

 

脇坂家を明るく照らしてくれる光になりますように。

それはもっと太陽よりももっと大きく照らしてくれますように・・・

陽と言う言葉だけで太陽という意味がある。それ以上に大きくなりますように。

大陽 とはそんな想いを込められた名前だった。

 

親父の口から由来を聞き、名前の通り生きようと心に誓った

たくさんの人を照らし明るくし暖かくもできる人になると。

 

 

来年の4月には子供が産まれる。男の子だ。

僕の親父のようにカッコいい親父になれるように頑張ろうと思う。

 

 

大好きを仕事にできている20代。

大切な人を大切にする本当の意味を知れた20代。

 

すごく濃かった。

すごく楽しかった。

たくさんの方に支えられて応援してもらって生きてきた。

 

ますますオモロイ人生になりそうだ。

頑張れよ。ハタチの自分。

頑張ったな。29歳の自分。

 

2017年12月18日

脇坂大陽

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA